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朝の路にはまだ太陽の温もりがなくて、肌をかすめる空気はガラスの切っ先みたいだ。
昨日の風が雲を全部吹き飛ばしてしまったのか、高く澄み渡っている空の青さもなんだか冷たい。
この路を一人で行くのは久しぶりだ。
お店を始めたころは、リシェルとルシアンが毎朝来てくれた。
みんなと出会ってからは、大勢で賑やかに歩いた。
メイトルパから帰って来て、アカネやアルバ、シンゲンはそれぞれ旅立って。
ルシアンは学校へ入るための勉強に、リシェルも派閥デビューの準備に忙しくなったから、セイロンがまた戻って来るまでの少しの間は、こうして一人でミントお姉ちゃんの家まで行った。
それがもう、何年も前みたいな気がして落ち着かない。
メイトルパへ行く前は、同じ御使いでもリビエルやアロエリは一緒に来てくれたのに、セイロンは一度も手伝ってくれたことがなかった。
そういう下賤の仕事はしないなんてことかと思っていたら、居候になってからは、ほんとにさんざん働いてくれたから驚いた。
さすがに接客は苦手らしかったけど、水汲みも薪割りも手慣れていたし、手習い程度だと自分では言っていた料理の腕も、逆に教えられることがあったくらいだ。
身分が高かったら、そもそも料理なんてしたことがないのが普通だと思う。
それでいて、あの偉そうな態度からしてもやっぱり上に立つ立場なんだろうし、龍人の里では一体どんな風に暮らしていたんだろう。
帰ってからの彼は、どんな風に過ごすんだろう。
どこにいてもきっと偉そうに笑ってて、根拠のない自信に満ちあふれているだろうけど。
「あれ? セイロンさんは?」
野菜を洗っていたお姉ちゃんは、挨拶も忘れて首をかしげる。
確かに、彼は毎朝ここへ来ていた。
でも一緒にいるのが当たり前みたいに言われてしまうと、ちょっと落ち着かない。
それに、今朝言われたことを思い出してしまう。
なんだか恥ずかしくなって、わたしは早口に応える。
「帰っちゃった。龍姫様が見つかったんだって」
お姉ちゃんは、そうなんだ、と軽く頷いただけだった。
「ずいぶん急だったね。大袈裟なのは苦手だって言っていたけど、送別会くらいさせてほしいよね」
「え、」
いつも以上に、ゆったりとした声。
それに、あまり驚いていない風なのも引っ掛かる。
「お姉ちゃんは、なにか知ってたの?」
思わず聞いたら、
「少しお話をしただけだよ」
ふふ、と笑った。
ちょっと嫌な予感に、わたしは心の中で身構える。
ポムニットさんもお母さんも、こういう笑い方をする時の話題は決まっている。
けれどお姉ちゃんは、その笑みをすぐに引っ込めてしまって、少し寂しそうな声で続けた。
「セイロンさんがフェアちゃんのお店を手伝うことになった時にね、ここにはどのくらいいられるのかって、聞いたことがあるの」
「あ……」
「そんなこと彼にだって答えられないだろうって、わかってはいたんだけどね。たぶん言葉にすることで、今日の準備をしたかったのかな」
お姉ちゃんは、ラウスブルグでの旅を知らない。
行って帰るまでリィンバウムでは一月しか過ぎていなかったけど、わたし達にとっては、丸一年もの時間をかけた長い旅だった。
船は、結界に負荷をかけないように別の空間を回り道して行く。
だからとても遠くなるし、妖精の力がなければ迷ってしまう。
エニシアとわたしは、羅針盤になった。
わたし達の人の部分を休ませるために、交替で。
初めは怖かった。
船を動かすのは、これは夢なんだとわかって夢の中にいるのと似ている。
だから体へ意識を戻した時、周りに誰もいなくなっているんじゃないかって、そんな気がした。
父さんとエリカが出て行った日。
泣き疲れて夢を見て、そこは賑やかな街の広場で、たくさんの人が行き交っているのにわたしを知っている人は誰もいなくて、悲しくて苦しくて目を覚ました。
でも現実のわたしも、暗い家の中にやっぱりたった一人でうずくまっているだけで。
わたしは置いて行かれたんだって。
悪い夢を見た夜は家の中が世界の全てで、すぐ傍に温もりを感じられないことが寂しくて不安で、生きているのはわたし一人なんじゃないかって、そんな気がする。
リシェルやルシアン、お兄ちゃん、お姉ちゃん。
先生やオーナーや街の人達がわたしを見ていてくれるって、昼間は自信たっぷりに頑張れる。
でも夜になると、それぞれがそれぞれの家へ帰って、別々の世界へ行ってしまうような気がして。
どうしようもなく怖かった。
あの頃のわたしを、思い出してしまうから。
船を動かすことで、わたしの中の妖精の力は突然強くなった。
それがあまり急すぎて、精神が不安定になっているんだと、セイロンは言った。
起きている時は、おいしい料理を作ってみんなと食べて。
ミルリーフに四界やリィンバウムのことを教えてもらったり、アロエリやカサスさんからメイトルパの話をきいたり、リビエルとたくさんある難しい本を少しずつ読んで。
交替の時はエニシアがしばらく一緒にいてくれて。
そうしている間のセイロンは、何を変えるわけでもなく淡々と自分の日課をこなしているだけで、旅の途中だということを忘れているんじゃないかと思うほどだったけど。
目を覚ます時には、必ず傍にいてくれた。
夢から帰ったら、いつでも彼はそこにいる。
確かめるように、確かなものにするように、わたしの名前を呼んでくれる。
だからトレイユへ戻ってからも、わたしはずっと安心していた。
しばらく姿を見せなくたって平気だったし、旅に出たって、大丈夫。
龍姫様が見つかったら、シルターンへ帰ることも。
本当の意味で仲間としての繋がりがあるのなら、距離なんかはなんでもないことなんだって、わたしはそう思っていたけど。
そう遠くない未来にいなくなることを、覚悟したり諦めたり。
お姉ちゃんは、ずっと前に今日のことを考えていたんだ。
「その時にね、今伝えておくって、丁寧にお礼をされちゃった。フェアちゃんにも預かってるものがあるんだよ」
ちょっと待っていてね。
そう言ったお姉ちゃんは家の中へ飛び込んで、何か落ちたような音と小さな悲鳴をあげてから、小さな袋を持って出て来る。
「はい、宿代」
渡された袋は、ずっしり重かった。
覗いたら、中身は全部金貨だ。
「どうしたの、こんなに」
まさか追い剥ぎでってわけじゃないだろうけど、用心棒をするような暇はなかったはずだし、もちろんお給料は渡していない。
渡していたとしても、とてもこんな額にはならないだろう。
「お札や装身具をね、お金に換えて宿代にって」
「……持ってたんじゃない」
これだけあったら、小さな家くらい買えてしまう。
行き場がないようなことを言ったのは、ただの言い訳だったんだろうか。
「でも、なんでお姉ちゃんに?」
「テイラーさんとは……会ったことがないからじゃないかな? それにほら、私は派閥のツテでそういうお店にも詳しいしね」
お姉ちゃんは、少しだけ遠回しな言葉に変えて言う。
オーナーは、ポムニットさんのことも、わたしのことも知っている。
だけど金の派閥の一員として、このリィンバウムの人間として、そういう価値観の中でずっと生きてきたんだし、これからもそれは変えられないだろう。
わたしだってみんなに会うまでは、考えたこともなかった。
重い荷物を運ぶ動物たちが、故郷へ帰りたがっているなんてことも。
召喚されたひとたちが、リィンバウムの人間と変わらないんだっていうことも。
天使なんて、そういう召喚獣がいるって聞いてはいたけど、遠目に見たこともなかった。
実際に会って話をして、一緒に笑ってごはんを食べて。
召喚獣と呼ばれるひとたちがどういう存在なのか、初めて知った。
だからみんなのことを仲間だって思えるのに、それまでの意識はすぐになくなるわけじゃないから、自分が響界種だとわかった時には怖かった。
セイロンは、召喚されてこの世界へ来たわけじゃない。
だからラウスブルグでは、彼の存在がちょっと浮いて見えた。
それでもリィンバウムの人達にとっては、主を持たない彼はただのはぐれ召喚獣でしかなくて、人間と同等にはなり得ない。
そのことを、彼自身はちゃんとわかっていた。
わたしが平穏な毎日の中で忘れてしまっていた間も。
「直接渡したらフェアちゃんは受け取らないだろうから、帰ってから渡して欲しいって頼まれたの」
「そんなの、当然だよ。その分はしっかり働いてもらったんだし、受け取れないよ」
「でもね、フェアちゃん」
お姉ちゃんはわたしの手から袋を取り上げて、野菜カゴの底へしまってしまう。
「貴方は何もしていないつもりでいても、セイロンさんには御使いとしてのお礼の気持ちがあったんじゃないかな。受けた恩は金品で返せるようなものじゃないけどって、言っていたよ。セイロンさんらしいよね?」
抗議しようとしたわたしは、口を閉じる。
そうだ、とってもセイロンらしい。
真面目で不器用で、律義すぎて融通が利かなくて。
何でも一人で責任を取ろうとして。
「さあ、お野菜を運ばないとね。今日は私も一緒に行くよ」
お姉ちゃんに手伝ってもらって、路を逆に辿る。
歩く度に揺れるカゴから、硬貨の立てる音がする。
だけど、なんだかちぐはぐだ。
仲間の送別会は進んで計画するくせに、自分は黙っていなくなるなんて彼らしいと思う。
変にしんみりしたりしないで、ちょっと出かけてくるだけみたいにあっさりと行ってしまうのも。
それでいて、こうして宿代を預けてあったりするのも。
これだけならとても彼らしい。
なのに、あの言葉を思い出すと途端に、何を考えているのかわけがわからなくなる。
あの言葉が本気なら、あんな風に突然出て行くなんて冷たいと思う。
自分の気持ちを言うだけ言ってわたしには返事もさせないで、こんな風に断れない形で宿代を置いていくなんて。
独り善がりで、とても彼のすることとは思えない。
やっぱりからかっただけなんだろうか。
冗談だと思ってみても、それもまた彼らしくない気がしてしまうけど。
扉を開けたらリシェルはもう来ていて、
「ちょっと、セイロンはどこにいるのよ?」
わたしたちを見るなり尋ねる。
「あー……うん、それがね」
「セイロンさん、帰っちゃったんだって」
リシェルの驚いた顔はお姉ちゃんとは正反対で、大袈裟すぎるんじゃないかと思うほどだった。
しばらく呆然と突っ立って、それからやっと我に返った彼女は、
「いないならもっと早く言いなさいよね!」
悲鳴みたいな声を挙げて駆け出して、ポムニットさんを呼んで来てくれた。
結局お姉ちゃんもそのまま手伝ってくれたのに、昼の部はさんざんだった。
普段と違うリズムがやりにくかったのか、それとも自分では集中しているつもりでいたけど、本当はできていなかったのかもしれない。
そうでなければ、セイロンが思いの外整理下手で、何をどこに置いたのかわからなかったせいかもしれない。
缶切りが堅い実のカゴから出てきた。
だって、いつも缶詰めを開けるのは彼の分担で、どこにあるかなんて気にしなくてよかった。
果物の芯抜きも泡立て器も、どこへ置いたのか彼が覚えていればそれでよかった。
イスに乗って手を伸ばしながら、途方に暮れる。
星形の型抜き出してくれる?
そう言えば、彼が一番上の棚から下ろしてくれた。
ずっと一人で暮らしてきたわたしにとって、それは贈り物みたいに嬉しくなることで、小さな動作のひとつひとつがとても温かかった。
すごく特別なはずだったのに、いつの間にか毎日の中へ溶け込んでしまった。
大切なものは失ってから気がつく、なんて、使い古された表現なのに。
それがこんなに鮮烈で残酷だったなんて、考えもしなかった。
どうして忘れていたんだろう。
何でも一人で大丈夫だったわたしは、どこへ行ってしまったんだろう。
それとも初めから、何もできていなかったんだろうか。
考え出したら止まらなくなって、物理的にも精神的にも疲れ果てる。
やっと休み時間になった時には、厨房はめちゃくちゃだし、わたしはため息ばかりついていた。
こんな気分の時は、いつもならごまかしたり泉へ行ったりするけど、その気力すらない。
このまま夜の部なんてとても無理だと、わたしを含めた全員が感じたんだと思う。
「いかがでしょう? セイロンさんからのお金を少し借りるということにして、しばらくの間お休みするというのは……」
ポムニットさんが代表して、そっと言った。
一瞬、迷う。
今までがんばってきたのに、こんなことでお店を休むなんて情けないし、悔しい。
いつもみたいにやってみればなんとかなるんだって、無理を通したくなる。
だけど、そう考えて気付いてしまった。
驚いたり呆れたりしながら、それでも手伝ってくれたこと。
それまではみんなに甘えていた部分まで、全部セイロンが引き受けてくれていた。
その本人がいなくなったから困っているのに、無茶をできるわけがない。
わたしができないことを認めなければ、今度はみんなを困らせる。
それはもっとダメなことだと思うから、わたしは頷いた。
言い出したポムニットさんも、リシェルもミントさんも、ほっとしたみたいに笑う。
きっと、ひどい顔をしていたんだろう。
「その方がいいかもね。あたし明日は早いから、夜の部は手伝えないしさ」
「いい機会だし、のんびりしてみるのも大切だと思うよ」
口々に言うみんなへ、
「そうする、今日はほんと、ありがとうね」
今度はちゃんと笑顔になれたけど、それが最後の精一杯で、残りの元気も全部使い果たした気がした。
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