状態異常:麻痺


 急な雨。
 痛いくらいに勢いのある雨が吹きつける。
 剣の稽古場から、一番近い扉へ走る。
 ほんの少しの距離なのに、全身がびっしょりだ。
 まず泥だらけになった靴を脱いで。
 居候は出掛けているし、店はお休みだから家の中には今誰もいない。
 濡れてしまったエプロンも上着も脱ぎ捨てて、ワンピースまで脱いでしまおうとしたところで、蒼天の間の窓が開けっ放しになっているのを思い出した。
 彼はそこから顔を出して、シャオメイ殿の所へ行って来ると言って、表のドアから出掛けたんだった。
 廊下を爪先立ちで歩いて、部屋の扉を開ける。
 頬に当たる湿った風。
 朝から曇っていたから洗濯物は干さなかった。
 いつも並べておく干物も出していないから、彼も雨が降るかもしれないとは思ったんだろう。
 それなら閉めて出掛ければいいのに、平気で開け放したまま行ってしまうのだから、真面目なのか大雑把なのかよくわからない。
 吹き込んだ風雨が机の上を掻き乱して、紙片が床に散らばっている。
 カタカタと窓枠は音を立てるし、まるで嵐みたいだ。
 慌てて踏み込んでとにかく窓を閉めて、濡れてしまった床を拭かなくちゃと思った時。
 右足の裏から火花が散った。
 しまった。
 素足で、札を踏みつけている。
 そう認識したのと同時に、体は自由を失ってベッドへ倒れ込んだ。
 麻痺。
 こんな危ない札を剥き出しで置いておくなんて、どうかしている。
 普通はこのくらいじゃ発動しないのかもしれないし、確かにこのごろのわたしはバランスがおかしくて、リビエルにも魔力を制御しきれていないと言われた。
 たぶん封印がなくなったからで、お母さんはわたしが大人になったんだと言った。
 そう、わたしはどんどん変わっていく。
 髪が柔らかくなって、陽に焼けないようになったし、胸だって少し大きくなった。
 これでも女の子で、恋だってしたことがある。
 自分が誰を好きかってことくらい、その好きがどんな好きなのかだって、ちゃんとわかってる。
 だけど相手に、仲間への好きなんだと思われていたら、どうすればいいんだろう。
 大切だと思うことも一緒にいたいと思うことも、どんな好きもそこまではみんな同じで、でも順番だけが気持ちに名前をつけるわけじゃなくて。
 例えば今のわたしが身動きできなくなっていて、それは彼の部屋で彼のベッドで、こんな時に困るかどうかが気持ちを種類分けしていて。
 でもこんな気持ちになっていることを言うなんて、そんなのできっこない。
 わたしをそういう風に見てくれたことがないのに、そういう風に見て、なんて頼めない。
 ずっと一緒にいてくれる。
 この街でも遠いシルターンでも、どこにいても絶対に離れないでいてくれるって、そこまで約束してくれたけど。
 それだけだって、すごく暖かで安心できて、嬉しい。
 だけど。
 わたしはずっと仲間のままなの。
 いつになったら、わたしはあなたにとっての大人になれる?
 いつまで待てばいいの。
 それともわたしじゃダメなの。






 廊下を曲がった時、既に気配は部屋にあったのだが。
 念のため、庭へ続く扉を開けた。
 風も強かったのだろう、花壇が荒れているものの特にこれといった異変はないのを確かめてから、施錠する。
 練習用の剣とはいえ、濡れたままに放り出して何をしているのか。
 その上服も靴も、その場に脱ぎ捨ててある。
 とても年頃の娘のすることとは思えない。
「ほう、これはなんとも扇情的な眺めではないか」
 だから自室に入って意外な姿を目にしたときも、どちらかといえば挨拶に近いほどのつもりで口にしたのだが。
 途端、娘はその頬を、耳朶を、襟元から覗く首もとまで、甘やかな熱に溶けた紅で染め上げた。
 いっそ可哀想なほどだ。
 そうして声をあげることもできずに、閉じた瞼の端だけを微かに震わせている。
 この艶やかな様はどうだろう。
 童と呼んだこともあるが、子供と思ったことはない。
 その代わり、女と思ったこともなかった。
 あまり身近にいすぎるからわからない、などは野暮のすることで、少しずつ開きそめていく様を愛おしんできた筈が、どこかで間違えてしまったか。
 いつの間に、こんな表情を覚えた。
 もし己以外の教えたことであったなら、許すことは到底できそうにない。
 素足に貼り付いた札を剥がし、滞った気を通わせてやる。
 娘は、まるでそれが愛撫ででもあるかのように、色めいた吐息を洩らした。
「気分は、どうかね?」
 乱れた髪を指で梳く。
 その常とは違う仕種に応えてか、潤んだ瞳が瞬き、己を映す。
「……おそい、よ」
 まだ思うように動かないのだろう。
「ずっと、まってた、のに、」
 舌っ足らずに訴える娘の唇を、衝動的に塞いだ。
 たぶん、娘はただ帰りが遅かったことを責めているだけなのだろう。
 それでも待っていたのはこの口付けだと、気付かずにいた己を責めているのだというように、柔らかな唇は男を迎え入れ嬲るがままに蹂躙させる。
 ようやくの思いで甘い舌を解放した時、娘は嗚咽に近い吐息で先ほどの続きを言った。
「すき、なのに」
 愚かな男だ。
 どうしようもない。
 これまで気付かずにいた己の愚鈍さを、今になって悟る。
 どこかでこうと決めかねていたのだろうか。
 確かに躊躇いを覚えるのも無理はないほど、想いは深い。
 これほどの執着は扱い慣れず、この先さらにとなれば、無意識で自身に歯止めを掛けてでもいたものか。
「……済まなかった」
 何から始めれば良いかわからずにそれだけを言えば、
「せい、ろん、は?」
泣き出しそうな顔で問いが返る。
 愚かな男だ。
 謝罪など欲しくはないと、それすら言われなければわからない。
 呑気に待っていたつもりが、結局は待たせてしまった。
「好いていなければ、このようなことはせぬよ」
 こんなことなら、もっと早くに伝えてしまえばよかったのだろうか。
 だが性急すぎる質のままに進めてしまえば、どのみち悪い結果にしかなるまい。
「フェア」
 彼女に関しては何ひとつ、これまでの通りに運ぶことがない。
 その混乱すら心地好いのだから、己のなんと身勝手なことか。
「そなたを愛しく思っている。誰よりも、何よりも」
 辛そうに噛み締められた唇が綻び、やっと優しい笑みに変わる。
 娘は清純な少女の顔で笑む。
 だがそのあどけない笑顔の奧にも艶やかな色があるのを、もう隠してはおけない。
 再び重ねる唇から割り込ませた舌先に応える拙ささえ、この先をねだるように甘く、頬も耳朶も捕らえた指も、触れた唇が溶けるように熱い。
「セイロン……」
 己を呼ぶその声は、呪文よりも強くこの心を縛るだろう。
 掌に馴染む素肌を撫で上げれば、息を止め身を竦めながら、それでも娘は瞼を閉じた。




唐変木。
たまには鈍感バージョンの若さまで馴れ初め。
2008.01.29 TALESCOPE