螺旋の風
切り立つ岩肌の窪みで、気配が揺れる。
路は疎か僅かな足場さえ望めない孤立の岩棚へ、いつの間にか滲むようにその人影はあった。
音もなく、温もりもなく。
蜃の紡ぐ吐息の如く、密やかに。
それでも蒼白い月燈りの落とす影だけは、寄り添う二つの存在を確かにしていた。
柔らかく舞う風に甘い香が混じるのを知り、男は懐かしい呼び名で呟く。
真白い衣が揺らめき、男に花びらの螺旋を思わせた。
彼女は呼応するように、眼下へ広がる町へただいま、と、微笑む。
澄んだ大気が建ち並ぶ家の灯を瞬かせ、星明かりへと変えている。
夜の底へ広がる街に、以前の面影は残されていない。
昔天の星を見た丘は切り崩されて、そこにもまた無数の煌めきが点る。
馴染んだ広場も石段も姿を変え、見知らぬ人々が暮らしている。
陽光に照らされたなら、そこにはもう微かな名残りすら見当たらないとわかるだろう。
それでも、こうして闇の中に瞬く灯の色は懐かしく、花の香も変わらない。
故郷を見たい訳ではないと、彼女は言った。
ならば、始まりと終わりを等しくすることで、何かを伝えたいのだろうか。
ほう、と、彼女は甘やかな溜め息をついた。
触れる指先が急に温かいのを知り、男は眉を寄せる。
疲れたか。
低く問えば、応じるのも億劫なのか、ただゆっくりと瞼を閉じる。
男は座し、自身の腕の中へ静かに彼女を横たえた。
おやすみ。
指の間から流れ落ちる銀の髪が、光の糸に似て眩い。
微かな輝きを放つ肌は真白く、身を包む凶服へ溶け込むようだ。
そうであるのに、温もりは冷えた腕へ、胸へと優しく染み込んでくる。
まだ娘の面差しを残した頬は淡く紅を孕んで、伝わる鼓動も呼吸も命に満ちている。
温かい。
人の子として眠る為に、ここへ還ったのだろうか。
彼女という命を育んだこの街と共に、見守れというのだろうか。
このあまりに愛しい温もりの、ただ遠離る様を。
知らず伝い落ちた涙が、彼女の耳元で微かな音を立てる。
それでは、あまり残酷だ。
気配に震える瞼を、掌で覆い隠した。
この上あの瞳に己が姿の映るのは、とても耐えられそうになかった。
済まぬな。
頬へ額へ、もう開くことのない瞼へ口付ける。
我は今少し留まらねばならぬ。
種としての刻が、未だ残されておるのでな。
ふいに、風が凪いだ。
彼女もまた、大気の呼吸であるかのように。
熱のない穏やかな月明かりが、微睡む娘を水底深くへ攫う。
温もりは離れ、彼女を彼女と成していた形はただの静物へと変わる。
逃がすまいと抱き締めた。
記憶が何になるというのか。
所詮は鏡に己の影を見るだけだ。
消えていく温もりは、これまでの全てを奪い去ってしまう。
これでは覚悟など意味を成さない。
終わりは必ず始めでなければならないと、彼女を諭したことさえ戯れに思える。
二つが同一であるならば、失ったこの虚ろも存在しないというのだろうか。
彼女の名を呼ぶ。
まるで路を見失った幼子だ。
自らの終焉を手繰りよせることは許されぬ。
では、祈れば良いのか。
今この時、この地へ禍事の訪れを。
急がないで。
優しい声音は、彼女の唇が紡いだのか、それとも心の内へ響いたのだろうか。
大気が、また揺れた。
ここで待つわたしには、ほんの僅か。
瞬きをするくらいでしかないんだから。
故郷を見たい訳ではないのだと、彼女は言った。
風は流れ、花は咲き、街の灯は幾多の星座を配し煌めいている。
その銀河も天の銀河も、どちらがどちらの影であるのか。
ひとつの廻りを終える彼女にとっては、五界の全てが等しく故郷なのだろう。
それほどに大きな、刻からも放たれた中でなお、たった一人との始まりの地で終える為だけに。
再び始まるまでの僅かな刻を、彼女の祝福で満たす為に。
流れ込む温かな光。
いつまでも、こうして教えられることばかりだ。
彼女を守るつもりでいながら、守られている。
常に傍らにあったその幸福の全てが、目まぐるしく鮮やかな螺旋を描き、身の内へ流れ込む。
魂を満たしていく。
愛される者。
失うこともまた得ることと同じならば、今こそ欠けるところのないものと至るだろう。
その夜、頂の一角から紅龍が顕れ、傾いた満月を掠め中天へと消えた。
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