どうしよう。
あんなにわかりやすい言い訳をして出て来ちゃったら、どんな顔をして戻ればいいんだろう。
泉の水面はどんよりと曇ったままで、何も言ってはくれない。
幻獣界への長い旅の後、しばらくの間は独りだった。
たくさんの仲間と暮らした想い出は、見慣れた家の中をいつもより広く見せたけれど、すぐに寂しさには慣れた。
同じ静かすぎる夜だって、ただ震えて泣いていた昔とはもう違う。
どんなに離れた場所にいても、わたしはみんなを覚えているし、みんなもわたしを覚えてる。
その気持ちが暖かなうちは、けして独りきりにはならないんだって、そう思えるようになった。
少しも我慢してないとは言えないけど、なんだか風が凪いだみたいに、それでも穏やかな自分でいられた。
セイロンが戻って来るまでは。
また寂しさに慣れてしまったわたしには、日常へいきなり飛び込んで来た彼が、まるで知らない人に見えた。
だって、彼のことを今まで男の人として意識したことなんかなかった。
ああ、違う。
そうじゃなくて、意識しなかったのは自分の方だ。
自分が男じゃないっていうことを、わたしはずっと考えないでいた。
大人として認められたいって、いつもがんばってばかりだったから。
それにセイロンは、女は下がっていろ、なんてことは言わない。
性別も年齢も関係なく実力を見て、一緒に戦う仲間として対等に接してくれる。
だからよけいに、女の子として扱われないことが嬉しかった。
それだけ信頼されてるんだって、思えたから。
家の中に自分以外の誰かがいるって、それはやっぱりすごくうれしいことで、もし彼じゃなかったら素直に喜べたのかもしれない。
でも、セイロンは全部壊してしまった。
彼がそこにいるだけで、すべてがどんなに変わってしまうのか、わたしははっきり知ってしまった。
どうしてあの人は、わたしを困らせるんだろう。
龍姫様が見つかるまでだなんて期限つきで現れて、まるでわたしを急かしているみたい。
あなたにとってのわたしは、大切な身内?
わたしのことをどう思ってるの?
(あなたはどう思っているの?)
泉の中から声がした気がして、閉じていた目を開ける。
暗く濁った水面は一瞬だけ、藍色に澄んで鏡よりきれいに月を映した。
すぐに歪んでしまったけれど、その光は瞼に優しく残って、また目を閉じても闇をぼんやりと照らしてくれる。
そうだよね、こんなのわたしらしくない。
どうなるかなんて、進んでみなくちゃわからないんだもの。
満月の下を走って、家に帰る。
カーテンの隙間から細く流れる、眩しい灯りの帯が見える。
ドアを開けてすぐそこにはいないのに、部屋の空気からは柔らかい温もりを感じるのが不思議。
誰かがわたしの帰りを待っているのが、不思議。
「早かったな」
厨房へ入ると、セイロンは横顔で素っ気なく言った。
振り向かないままなのも、そんな言い方をするのも、気を遣ってくれているからだ。
このままなにも言わなければ、きっといつも通りに過ぎ去ってしまえるんだろう。
「うん、まあね」
でもわたしは、進むと決めた。
「ねえセイロン……ちょっと話があるんだけど、いい?」
「ああ、構わぬよ」
普段と変わらない、自信に満ちた偉そうな声。
包丁を持つ手は止まらないから、彼が指を切るような気がして心配になる。
「セイロン。わたし、セイロンのことが好き」
それなのに、皮をむいた野菜をボールへ投げ入れて、
「ああ」
彼は平然とうなずいた。
「我も同じだ」
あっさりと続けながら、またひとつ手に取ろうとする。
「そうじゃなくて!」
わたしは思わず大声をあげる。
怒って言ったつもりだったのに、悲鳴みたいに部屋へは響く。
「そういう意味じゃないんだってば! わたしっ、だから、あの……あのね?」
どうしよう。
このまま逃げてしまいたくなる。
聞きたくないからって、わざとわからない振りをしてるんだったら、どうしよう。
間違えてしまったら、あなたはまた出て行くの?
「そなたを愛しく思っておるよ」
毎日する挨拶みたいな口調だから、一瞬何を言われたのかわからない。
「おや、意味をとり違えてしまったか?」
やっと包丁を置いて、セイロンはわたしの方を見た。
想像していたからかうような笑みはなくて、びっくりしてしまうくらい真面目な顔をしていたけど、でも。
わかって言っているんでしょ?
「……こういうこと、挨拶みたいな口調で言うのってヒドいんじゃない?」
安心したのと照れかくしとで、思いっきり睨みつけたら、ちょっと困った顔になる。
「うむ……どうも、言い慣れていないものでな」
「ウソ。ちっとも驚かなかったくせに!」
「嘘などつこうものかよ。それとも、このようなことを言い慣れた男がよいのかね?」
赤い髪と目、尖った耳。
二本の角。
こんな場所にいることが、なんだかとても似合わない気がしてしまう。
でも、それがどうだっていうの?
置いて行かれた五歳の子供は、ただ帰って来るのを待つだけだったけど。
ここがわたしの家だから守り続けなくちゃいけないんだって、外へ出たら消えてなくなってしまうんだって、そう思っていたけど。
平凡なおばあさんになる夢が消されて、わたしの世界は急に怖いほど広がった。
高くて遠くて息ができなくなるほどの自由。
あんまり広すぎて小さな自分なんかわからなくなりそうで、だからもう、きっと独りで息をひそめて待っているなんてできない。
「……フェア」
低い溜め息のような声で、セイロンがわたしの名前を呼ぶ。
「もう、いいよ」
「フェア」
「言い直さなくていいから、そんな声で呼ばないでっ」
笑い声をあげて、返事のかわりにわたしを両手で抱き締める。
(あなたはどう思っているの?)
わたしはセイロンのことが好き。
大好き。
だからそのうち、遠くへ行くかもしれないけど。
(大丈夫)
許してね?
(それがどこだって、あなたのいるところが、あなたの家だよ)
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