別れの日
それはごくありふれた挨拶だったのに、私が足を止めてしまったのは、交わす二人の声がひどく静かだったからだろう。
「さようなら、先生」
「ああ……、さようなら」
彼女も先生の教え子であったことを、私は知っていた。
いなくなってしまった先生を必ず連れ戻すと約束をしてくれたのは彼女だし、よくこうして話をしているのを見かける。
クッキーやパンケーキを配って、私達を喜ばせてくれることもある。
ただ、その日はもう夕暮れで、こんな遅い時間に彼女の姿を見るのは初めてだった。
「気を付けて行きなさい」
先生の言葉に、彼女は少し驚いた顔をする。
「もう必要のない心配だったかな。でもね、君は私にとっていつまでも生徒なんだよ」
「うん、ありがとう」
その顔はいつもの朗らかな笑顔に変わって、それから寂しそうな微笑みになる。
坂道の方へ歩く彼女の背中を、足の不自由な先生は門の内側から見送っている。
その横顔もやけに静かで、それは幼い私を訳もなく不安にさせる。
夕陽へ向かう坂道の途中で、私は彼女に追い付いた。
「おねえちゃん!」
振り向く肩に、銀の髪が柔らかく揺れる。
そういえばいつもは結い上げている髪を今日は下ろしているのだと気が付いて、私はまた不安になった。
どうしてなのだろう。
いつもとは違うことが多すぎる。
「おねえちゃん、どこにも行かないよね?」
それは思いつきで口にしただけの言葉だったのに、彼女は弾かれたように身を震わせた。
子供というのは、残酷だ。
「どっか行っちゃうの?」
日常の景色から、彼女の姿が消える。
当たり前だと思っていた日々の一部が欠け落ちる。
まだ何も失ったことのなかった幼い私には、急にそれが恐ろしいことに感じられて、黙り込んでしまった彼女を責めた。
「どこに行くの? すぐ帰るんだよね?」
ただ自分の中に生まれた不安を、取り除いて欲しかった。
何も変わることはないのだと、打ち消してくれる言葉が欲しかった。
「いつ帰って来るの? ねえ!」
けれど、すぐにもらえると思った答えは返らなかった。
いつの間にか現れた黒い影に、私の体が包まれてしまったからだ。
「うわっ!」
暴れる足が宙を蹴ってようやく、誰かの腕に持ち上げられたのだとわかる。
「なにするんだよ!」
その腕を叩きもがく私を、まるで少し物の位置を動かすだけといった動作で解放した影へ、恐怖よりも怒りで乱暴に向き直る。
傾いた陽に照らされて、空も街も薄く朱を帯びた中にあってなお一際、鮮やかな色が目に染みた。
赤い髪に尖った耳、そして二本の角が、その存在を人ではないのだと教えている。
召喚獣だ。
「なんだよおまえ……はぐれか?」
私は精一杯の悪意を込めて、立ち塞がる男を睨みつけた。
「なかなか勇敢な童ではないか」
低く笑った男は、私の顔を覗き込むように身を屈める。
近付く双眸も、鮮烈な赤だ。
「そなたの肉はさぞかし美味であろうな」
人肉を喰らうはぐれの話など、聞いたことがない。
からかわれているのだとわかっていても、私はその男を怖いと思った。
知らず後退る私の肩を、大きな掌が追いかける。
捕まる。
次に来るだろう痛みに怯えて、肌が粟立つ。
悲鳴が溢れそうになったその時、白い手が伸びて、男より速く私の肩へ触れた。
「だめだよ。悪いことしたわけじゃないんだから」
「その言い様では悪ければ構わぬように聞こえてしまうぞ」
男は声を挙げて笑い、私達を見下ろす目を細める。
「我は龍人だ。良かろうが悪かろうが、童の血肉を喰ろうたりはせぬよ」
彼女は膝をついて、立ち竦む私の髪を優しく撫ぜる。
情けない顔を見せたくなくて、私はうつむいたまま訊いた。
「遠くへ行くの?」
「うん」
「いつ帰る?」
「わからないよ」
悲しかったのか、それとも悔しかったのだろうか。
涙がこぼれて、乾いた土に音を立てる。
風も吹いているのに、そんな小さな響きも聞こえるほど静かなのが不思議だった。
「そうだ」
彼女は思いついたように言うと、いつも身につけている鞄から何かを取り出して私の手に握らせた。
「おどかしちゃったから、お詫びの印」
包み込む温かさは私のよく知る彼女のものなのに、その指は作り物に似て真っ白だ。
私は顔を上げて、彼女を見詰めた。
いつもと変わらない朗らかな笑みと、淡い青の瞳。
頬を縁取った銀の髪は緩やかに流れて、吹きつける風に揺れている。
「じゃあね」
夕陽へ向かう坂を上る彼女を、私はもう追いかけなかった。
もし彼女がどこへも行かないのだとしても、今までとは何かが変わってしまったのだという気がした。
二つの影が、並んで路を遠ざかる。
ゆっくりとした歩みは、まるで知らない旅人を見ているようだ。
坂を登りきった曲がり角で、小さい方の影が振り返る。
こちらへ手を振って、さようなら、と、言ったようだった。
私は何も応えなかった。
彼女の表情は、逆光線でよく見えない。
けれど、きっと私への別れではないのだと思った。
坂の上からは、夕方の陽に照らされた町並みがとても綺麗だ。
濡れたように光る屋根と、模様を描く細い路地。
煙突から立ち上る薄い煙が雲に混じって流れ、山際の暗い空にはもう一番星が出ている。
彼女はしばらくそんな景色を楽しんでから、傍らの影へ何かを言った。
また、並んでゆっくりと歩いて行く。
その長い影が消えてしまってからようやく、私は握り締めたままでいた指を解いて、掌の中を確かめた。
独特な形に磨かれた石が、雲間から覗く最後の陽を受けて滑らかな光を放つ。
あの男の目と同じ色だ。
捨ててしまおうかとも思ったけれど、私は結局それをポケットへしまって家に帰った。
引き出しへ投げ込んだまま数年が過ぎて、軍学校でシルターンの装身具だと知るまでは、すっかり忘れたままでいた。
魔力の籠もった、とても貴重な品だという。
彼女は、ただの気まぐれからだったのかもしれない。
けれどその石は、身につけた私の命を幾度か救った。
年老いてこの街へ戻り、こうして先生の跡を継いだ今でも、いつもその石は身近にある。
駆け寄って来る孫娘にドアを開けてやって、私は尋ねた。
「お客さんかい?」
門のところで誰かと話す声がしていたのは、生徒ではなかったようだ。
「ううん」
首を振った彼女は、私を見上げて黙り込む。
どう説明しようかと悩んでいるのだろう。
「えーとね、だれからもらったのって」
「うん?」
「おじいちゃんにもらったっていったら、おじいちゃんによろしくねって」
私はしばらく、孫娘の胸元に揺れる赤い石を見詰めていた。
話はすんだと思ったのか、彼女はまた外へ駆けて行く。
その後を追って、私も家の前の路へ出た。
反対の方角へ行ったのだろう、もう子供の姿は見えない。
あの日そうしたように、坂道の方へ歩いた。
不思議と、焦る気持ちはない。
驚きもなかった。
坂道の途中に二人を見付けた時も、私はただ、その場へ静かに足を止めた。
ゆっくりと歩いて行く彼等の後ろ姿は、記憶とほとんど変わらない。
けれど六十年の歳月を経た街も私も、あの頃とは違ってしまった。
今坂道を行く青年と少女は見知らぬ旅人で、見送る老人の足元は硬い石畳に覆われている。
空だけは同じ夕焼けに眩しく染まっていても、高くそびえた建物の陰に覆われている路は仄暗い。
光る屋根も一番星も見えないだろう。
それでも登りきった曲がり角で、二人は立ち止まった。
小さい方の影が振り返る。
こちらへ手を振って、さようなら、と、言ったようだった。
私も手を振り返し、さようなら、と、呟いた。
この街で彼等を知る者は、もう幾人もいない。
だから彼女は私へ手を振って、私も再び逢うことはできない彼女に別れを告げる。
またゆっくりと歩き出した二つの影が消えてからも、私はそんな景色を惜しむように佇んでいた。
あの遠い日、彼女は彼へ何と言ったのだろう。
背中からの強い夕陽を受けて、彼女の表情はわからなかった。
「おじいちゃん」
小さな足音が石畳に響いて、孫娘が私を呼ぶ。
「かえらないの?」
「いや、もう帰るよ。一緒に帰ろう」
手を繋いで、家までの路を行く。
塀の間からこぼれた夕陽が、二つの影を斜めに伸ばす。
街のあちこちに気の早い灯が点って、彼等がもう一度振り返ったなら、銀河に似て見えるのかもしれない。
思い浮かべる彼女の顔は、傍らにある幼い孫娘の笑みと重なる。
こんな風にゆっくりと歩くことができるのは、たぶん幸福な時なのだろう。
私は胸の内で、淡い恋を抱く少年の姿を懐かしんだ。
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